先日、徳島県松茂町にある「三木文庫」を訪問しました。
現在、私がご支援させていただいている企業様のひとつに、徳島県に拠点を置く三協商事様があります。この三協商事様のルーツは、江戸時代に藍の生産・販売を行い、全国に藍を届けていた三木家に遡るのです。
今回訪れた「三木文庫」は、1674年から続く三木家の歴史と商いの軌跡を記録・展示した資料館です。
「藍(あい)」とは、江戸時代を代表する天然染料で、当時の衣料品製造には欠かせないものでした。「日本資本主義の父」とも呼ばれる渋沢栄一の実家も、藍の生産と販売を行っていたことは広く知られています。
なかでも、徳島産の藍は品質の高さで全国に名を馳せており、各藩が地元産の藍の使用を推奨していたにもかかわらず、多くの染物業者が徳島藍を採用していたといいます。三木家は、その徳島藍を取り扱う最大規模の商家だったそうです。
三木文庫には、藍の生産に使われていた道具類や、実際に藍で染められた衣類などが展示されています。また、現在は非公開となっているものの、日本橋にあった三木家の江戸の商店が集めた錦絵や瓦版なども所蔵されており、ここでは紹介しきれないほど多くの文化財が収められていました。
その中でも特に印象に残ったのが、「膨大」という言葉では言い表せないほどの取引記録――すなわち大福帳の山でした。これらは、1674年から350年にわたって書き続けられてきた記録で、江戸時代はもちろん、明治・大正・昭和のものまで含まれていました。
驚くべきことに、これらの帳簿類には、藍で染めた紐が結びつけられており、防虫処理が施されていたとのこと(藍には防虫効果があるそうです)。これは明らかに、長期保存を意図していた証と言えるでしょう。
私はこの記録の山を前に、「三木家の商いが350年間続いた理由のひとつは、この記録の存在にあるのではないか」と強く感じました。
その理由を、3つにまとめてみます。
- 取引記録をつけ続けることで、信用を得ていた
通信や運送手段が発達していなかった江戸時代において、継続的に記録を取り続けることは、非常に手間のかかる作業だったはずです。
しかし、記録を丁寧に残すことで、正確な取引が実現し、結果として取引先からの信頼を獲得できたのではないでしょうか。これは現代の企業経営にも通じる、大切な姿勢だと感じます。
- 蓄積された記録が、世代交代のなかでも商いの継続を可能にした
当時は、現在のように情報を簡単に共有・保存できる環境ではありません。過去の取引内容や顧客の傾向などを記憶や口伝だけで引き継ぐには限界があります。
しかし、記録がしっかり残されていれば、たとえば過去に取引のあった得意先に対しても、どのような商品が求められるかを事前に把握することができ、商機を逃さずに済みます。これは競合に対する優位性にもつながったはずです。
事業の継続性と記録の関係は、実は藩政にも通じる話です。たとえば長州藩では、膨大な行政記録を残していたことで知られています。幕末に下級武士が台頭した際も、それらの記録により過去の政策を振り返ることができ、藩政の継続性が保たれたと言われています。
商いの世界でも、同じように記録が事業の継続を支えていたと考えるのは自然なことです。
- 記録を振り返ることで、時代の変化をいち早く察知できた
明治時代に入ると、化学染料の登場によって藍の市場は徐々に縮小していきました。
しかし、三木家はその変化をいち早く察知し、化学製品の取引へと舵を切ったことで、明治以降も商売を継続することができました。
これは私の仮説ですが、記録を日々つけ、積み重ねていたからこそ、市場の変化や売上の減少傾向を客観的に把握し、早期の業態転換が可能になったのではないかと思うのです。
経営指導の大家・一倉定先生も、「年計グラフ」によって長期的な売上・利益の推移を把握することの重要性を説かれています。
三木家も同様に、数百年にわたる取引記録の積み重ねにより、大きなトレンドを捉え、危機を予見し、時代に先んじて動いたのではないでしょうか。
ここまでご紹介してきたように、記録を「つけ続け」「蓄積する」ことには、
信用を得る
世代を超えて事業を継続する
時代の変化をつかむ
という、経営における極めて重要な意義があります。
そしてこれは、記録がはるかに取りやすく・残しやすくなった現代だからこそ、なおさら意識すべきテーマではないでしょうか。
改めて、自社の「記録」と「蓄積」について、見つめ直してみる機会にして頂ければと思います。