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論語から生き方、仕事の在り方を考える

知恵のバトン
2023.03.01

(弊社所属のコンサルタントによる長編コラム「KC文集2023」掲載記事)

当社では、セミナーの場等を通じて、経営者の方には3つのことを学んでくださいとお願いしています。それは、「新聞などを通して生きた経済や社会の動きを知る」、「経営の原理原則を学ぶ」、「何千年もの間、多くの人が正しいと言ってきたことを学ぶ」の3つです。

このうち、3つ目の「何千年もの間、多くの人が正しいと言ってきたことを学ぶ」の一つとして、2,500年前に編集された「論語」があげられます。「論語」は孔子の弟子たちが、孔子が言われていたこと等をまとめたものになります。

「論語」には確かに人間としての在り方について多くの示唆があるものの、各節は非常に短い節であることから、ともすると読み流していきかねません。
これが読み流れないようにする為には、各節について自分の生き方、仕事の在り方に引き寄せていくことが大事と考えます。

今回は、これまで私が「論語」を読む中で自分の生き方、仕事の在り方に引き寄せて考えてきたことについてご紹介したいと思います。
ご紹介にあたり、下記6つのテーマ別にご紹介したいと思います。
■学び
■謙虚さ、素直さ
■率先垂範
■調和と規律
■徳
■一所懸命
なお、論語は学びを重視している為、これが最も多くなっています。

この中で「論語」に少しでもご興味を持って頂けたら幸いです。
なお、訳についてはちくま文庫さんから出版されている「論語」の齋藤孝先生(明治大学文学部教授)の訳を使用しています。

学び
「学んで思わざれば則ちくらし。思って学ばざればすなわちあやうし。」(論語、為政第二)
(「外からいくら学んでも自分で考えなければ、ものごとは本当にはわからない。自分でいくら考えていても外から学ばなければ、独断的になって誤る危険がある。」)

経営の現場においては、様々な経営上の問題・課題に対応しないといけない訳ですが、その出発点は「問い」を立てることです。この「問い」が適切でなければ、適切な思考や検討ができず、適切な実行ができないと私は考えています。

その際、この「問い」が適切である為には、適切な「学び」が必要となってきます。例えば、お客様ニーズの変化により既存商品の売上が減少してきているとします。それに対して売上を改善していこうとしたら、昔とは違う今のお客様ニーズを知る必要があるのです。

その時、今のお客様に直接ニーズを確認していくことも大事です。但し、生の声は非常に重要な一方で、自社のお客様の声だけだと、世の中の一部の声であることも否定できません。自社のお客様層自身が今後減少することもあります。もっと広いお客様ニーズを知る為に、日々新聞を読んだり、様々な情報源と接する学びも必要となります。

そうした新聞等の情報源からの学びから、今のどのようなお客様ニーズに対応すべきなのか、という問いが設定できます。

加えて、お客様から対価を頂く為の正しい考え方を学ぶということも大事だと考えます。
売上を改善する、ということだけが目的であれば、今のニーズからずれた商品・サービスを(まさに押し売りのように)無理やりでも売り込む、という考え方も生まれかねません。しかし、お客様頂く対価とは、お客様に喜ばれる商品・サービスを提供して、その結果として頂くものです。そうした考え方を学ぶということも大事です。そのような考え方は、経営の原理原則や、古典からも学べることも多々あります。

そのような学びの中から、お客様が喜ばれることは何なのか、またそれに対応する為にはどのような商品・サービスを提供すべきなのか、という問いが立てられます。

このような「学び」が無い中で、「問い」を設定してしまうと、勝手に想像したお客様ニーズに対応することを考えたり、お客様ニーズに関係なく押し売りするような方法を考えたりする等、誤った「問い」を設定してしまうことになります。

私はこれが「思って学ばざればすなわちあやうし」の神髄なのではないかと考えています。

一方で、「学び」があっても、「問い」を立てないと、何も起こりません。それは問題提起が無い為、当然思考することもなく、その後の実行することもないからです。これは「学んで思わざれば則ちくらし」になります。まさに学んでも何もない状態です。

適切に学んで、適切に問いを立てることが大事だと考えます。

子いわく、「性相い近きなり。習えば相い遠きなり」(論語、陽貨第十七)
(先生がいわれた。「人は生まれたときには互いに似ていて近い。しかし、学びの有無によって善にも悪にもなり、互いに遠くへだたる」)

少し歳を経てきて感じるのですが、人間は幸せになる為には、本来色々なことを学ばないといけないのでは、と思うのです。

それは、決して学校の教科書的なことだけではなく、例えば、社会やコミュニティ、家族と一緒に生きていくあたり、他者への貢献であったりとか、思いやり、尊重、感謝といった事を学ぶことも、その一つです(そして、論語はそうしたことの学びを中心にした本でもあります)

そんなことは学ばなくても自然に身につくものだろう、と思われる方もいると思います。そういう個人のお考えは否定しませんが、私は人間は自然の状態では非常に利己的、自分中心なことが多く、そうしたものを抑制して他者への思いやりや尊重等をもたせるには、やはり学びが必要なのでは、と考えるのです。

子供をみていても、挨拶や感謝というものを親が模範をみせ、その上で子供に教えていたら、挨拶やお礼をするような子供になります。その逆もまた真で、親や周囲の人間が模範を見せず、教えなければ、挨拶や感謝ができない子供になります。
もし親や周囲の人間が模範とならなかった場合でも、学校の先生等、影響を与える他の人が模範をみせ、教えることもあるかもしれません。その場合でも学びはやはりあるのです。

そうした学びの機会もないまま大きく、大人になった先には、他者と協働が難しかったり、他者を傷つけたり、ひどい時には子供を虐待したりする人も出てくるのです。こうした人も生まれてからこのかた、他者への思いやりや尊重等を学ぶ機会があったなら、そのようなことにはならなかった可能性もあるのではないでしょうか。

上記は一例で、仕事をする上においても、生活をする上においても、学ぶ機会がないと、自分のありのままで取り組むしかなく、うまくいかない事も多いのではないでしょうか。会社を経営するにあたっても色々学びが必要であるにも関わらず、そうしたことを学ばなかった為に、うまくいかない方も多いのです。

「そんなことを学ぶも学ばないも個人の自由ではないか」という声もあるでしょうが、そうした風潮が様々な弊害をもたらしていることはないのかと感じます。今一度、学びの重要性を考える時期に来ているのではないでしょうか。

「回や一を聞いて以って十を知る。賜や一を聞いて以って二を知る」(論語、公治長第五)
(顔回は一を聞いて十を理解しますが、私は一を聞いて二がわかる程度です)
「一を聞いて十を知る」。論語の中でも有名な言葉ですが、皆さんはどのように感じられますでしょうか。

私は、長いこと、これは聞いた話を理解するのはもちろん、そこから色々なことを連想できることを言い、これは(時には生まれつきも含めた)地頭に起因するものだと思っていました。

しかし、「一を聞いて十を知る」ことができる理由は本当に地頭のよさによるものだけなのかな、と時間が経つにつれて思うようになりました。

むしろ、その聞き手は常日頃から注意して色々な情報を集め、学んでいたり、そこから色々なことを考えているからこそ、何かの情報に触れた時に、そこから様々なことを連想したり、考えたりすることができるのではないかと思うようになったのです。

つまり、地頭がよくても、常日頃から何ごとにも学ぶ姿勢がないと、「一を聞いて十を知る」なんてことはできないのです。

実際、この一節で挙げられている顔回という孔子の弟子は、大変な勉強家で、孔子から非常に愛されていたといいます。単なる地頭のよい、(言葉を選ばず言えば)こざかしい人ではなかったと思います。

こう考えると、自分が「一を聞いて十を知る」ことができていない時は、非常に学びが足りないのだと思います。そこで地頭のせいにせず、自分を高められるように学び続け、努力したいものです。

子いわく「十室の邑(ゆう)にも、必ず忠信、丘(きゅう)のごとき者有らん。丘の学を好むにしかざるなり」
(論語、公治長第五)
(先生がいわれた「十軒ばかりの村にも、私くらいの忠信の徳を持つ性質の人はきっといるだろう。ただ、私の学問好きには及ばないというだけだ(人は学んではじめて向上する。生来の良い性質だけではだめなのだ))

多くの経営者様とお話しする機会がありますが、多くの方が「当社の社員は真面目な社員が多いのです」と言われます。「当社の社員は不真面目な社員が多いのです」と言われる経営者様は、記憶の限りではいらっしゃいません。

しかし、これまた多くの方が、この「当社の社員は真面目な社員が多いのです」の後に、社員の方々が抱える問題・課題についてお話しされます。

具体的には、以下のようなことでしょうか。
・今までもやり方に疑問をもたず、変化を好まない
・問題・課題意識が乏しく、課題解決に向けた行動にならない
・受け身が多く、主体性に欠ける 等々

社員の方々が抱える問題・課題は多様だと思いますので、一律には言えないと思いますが、原因として思考力についての学びの機会が乏しいこともあるのではないかと思うのです。

日本の教育は、決められた事を学び、それをアウトプットする機会は多くあります。
一方で、あるべき姿を考え、それに対して現状にギャップがある場合に、ギャップを問題として捉え、解決に向けて考える機会は、教育現場において多いとは言えません。

そうした学びがなかった中で、「今までのやり方がおかしい場合に、それを問題として捉え、課題解決に向けて取り組む」ことを期待するのはなかなか難しいのではないかと思うのです。

特効薬・即効薬があるわけではなく、こうしたことを学ぶ機会として、社内研修のような場の他、実際の実務でも社員の方々に「あるべき姿」を考え、現状とのギャップに対して解決策を考える支援を、経営や現場の上司が担っていくことが大事ではないでしょうか。

社員の真面目さだけに期待するのではなく、学びの機会を創出することも、今後の大事な経営課題ではないでしょうか。

■謙虚さ、素直さ
子いわく「人のおのれを知らざるをうれえず、人を知らざるをうれうるなり」(論語、学而第一)
(先生がいわれた。「自分をわかってもらえないと嘆くより、人を理解していないことを気にかけなさい」)

2022年も暮れ行く中で、自分を改めて振返る心境の中、つくづく自分にはまだまだ他の方から謙虚に、素直に学ぶ努力が足りないな、と反省していました。

他の方が言われていること、取り組まれていることに実は素晴らしいものが沢山あるのに、それを謙虚、素直に取り込め切れていないのではないか、ということです。それは他の人が、ということもあるかもしれませんし、他の会社さんが、ということもあるかもしれません。

そう思っている中で論語のこの一節を改めて目にすると、自分では意識していなくても、自分が認められたい、わかってもらいたいという欲求が、そうした他の方や会社さんが取り組まれていることを謙虚、素直に取り込めない原因の一つなのではないかと更に反省しました。

曹洞宗に「只管打座」という教えがありますが、ただただ無になることが大事ということです。悟りを目指すとか邪念もなく、ただただひたすら無になるというものです。

日常生活の中でも「只管打座」を大事にしているつもりですが、まだまだ無になりきれず、欲求にとらわれている自分がいるのだなと感じます。

こうした反省も踏まえ、2023年はもっと他の方や会社さんからも学び、取込み、実践できる1年としていきたいと思います。

子夏いわく、「小人の過ちや、必ずかざる」(論語、子夏第十九)
(子夏がいった。「小人が過ちをすると、必ずとりつくろってごまかそうとする。」)

正直な話、これはよくないな、と思った時に、昔は何とかとりつくろうとしていた事も多々あったように思います。お恥ずかしい話ですが。

しかし、いつの頃からか、とりつくろっても結局どこかでボロがでるものだ、ということになんとなく気づいていった気がします。これが不思議と出るんです、ボロがボロボロと。

それだったら、はじめから関係者に状況について説明し、時には素直に謝るとともに、誠実にリカバリーに向けて取り組んだ方がよいと考えるようになりました。

もちろん、人間なので完璧に上記のようにできていますか、と言われたら、そうでもないこともあるかもしれませんが、極力そうあるようには努めています。

そうした方が、相手にとってもよい取組みができ、結果的に信頼が高まるし、自分自身も後ろめたさなく、むしろ満足感が生まれます。

過ちをしてしまった時は、せせこましくつくろうことなく、素直に、誠実に対応していきたいものです。

■率先垂範 
子いわく「その身正しければ、令せずして行わる。その身正しからざれば、令すといえども従わず」(論語 子路第十三)
(先生がいわれた。「上に立つ者の身のあり方が正しければ、命令しなくとも民は自然に従い、物事は行われる。反対に、その身が正しくなければ、命令しても人は従わない。」)

2022年6月の弊社北海道合宿時に江戸時代の名君、上杉鷹山についてお話しさせて頂きました。鷹山は治める米沢藩において、色々な改革を行いましたが、そのうちの一つが支出を減らす質素倹約でした。

米沢藩は、最も収入が多かった頃に比べて87%も収入が減っているにも関わらず、家臣削減等も行っておらず、赤字が恒常化していました。その為、収支を均衡させるための支出削減を行う必要があったのです。

その時、鷹山は家臣や領民に対して質素倹約を命令するとともに、自分自身の質素倹約を徹底しました。従来の藩主の生活費は86%減、身の回りを対応する奥女中は82%減と、大幅削減します。これは収入の減少に合わせた削減規模となっていました。

こうした率先垂範があったからこそ、米沢藩においては家臣・領民の質素倹約が進み、他の政策と相まってですが、財政再建が実現しました。

これは、鷹山自身のあり方が正しかったからこそ、家臣・領民が従ったのだと思います。これが鷹山が贅沢三昧しながら家臣・領民に質素倹約を命じても、徹底できなかったでしょう。

率先垂範はリーダーの大事な資質の一つです。

子曰く「民はこれによらしむべし。これを知らしむべからず。」(論語 泰伯第八)
(先生がいわれた。「一般の人民は、行うべき道について、したがわせることができるが、一つ一つ理由を理解させることは難しい(感化するのがよい))

論語の中でも、論争が多く、また誤解も多いと思う一文です。

この一文は、ともすれば孔子が一般の人間を下に見下していたように取られることもある一文です。確かに、私も初めてこの一文に接した時は、少なくない抵抗を感じたものです。

しかし、歳を経るごとにこの一文に対する印象は大きく変わってきました。
これは私の感じ方にはなりますが、この一文は、「リーダーたるものが範をみせ、それに従わせる、寄り添わせるようにしなさい。そうする方が口でガミガミ伝えるよりもよっぽど説得力があるし、一般の人もちゃんと変わるものです。」、ということを言われているのでは、という気がするのです。

実際、リーダーが率先して範を示していないのに、口でどうこう教えたところで、人は変わらないものです。それよりも、リーダーが率先して範を示す方が、よっぽど下の人が育つことを見てきましたし、自分自身も実感することがあります。

もちろん全く教えないというのも実際には難しいことは多々ありますが、その際も率先垂範の裏付けがあってこそ説得力があるのだと思います。

「子いわく「まずその言を行うて、しこうして後に之に従う」(論語、為政第二)
(先生は言われた。「君子は、自分の主張をまず行動で表し、その後に主張を言葉にするものだ(つまり、君子は口先の人ではなく、実行の人なのだ))

こういう心境になったのは本当に最近のことですが、今はくどくど口で自分の考え、主張を言う時間があったら、まずはその考えていること、主張したいことを自分自身が実行していくことが大事なのではないかと考えるようになっています(もちろん、いつもそうできている訳でもないと思いますが)

なぜなら、自分自身が実行できていないことをくどくど述べても、聞かれる相手もそうだと思うのですが、何より話している自分自身が空虚さ、虚しさを感じるからです。空回りしているような感覚でしょうか。

例えば、分かりやすい例で言えば、時間を守る、約束を守るということを実行できない人が、規律の大事さを主張するようなものなのです。全く説得力はないでしょう。

ただ、黙して語らずばかりがよいということでもありません。自分が実行して一定の成果を出した上で、その考え、主張を伝えていくのは良いのではないかと思います。それは説得力をもって相手に伝わりますし、相手の為にもなるでしょう。
上記例でいえば、きちんと時間を守る、約束を守るということを徹底した上で、規律の大事さを伝えるということです。

本節が言うように、自分の主張をまずは行動で表わし、その後で主張を行動にすることを心掛けたいと思います。

■調和と規律 
「礼の和をもって貴しとなすは、先王の道もこれを美となす。小大これによれば、行われざる所あり。和を知って和すれども、礼をもってこれを節せざれば、また行うべからざるなり」(論語、学而第一)
(「礼の活用は、和と一緒になってうまくいく。かつての聖王のやり方も、礼と和が両輪となって立派だった。実際には和を大切にするだけではうまくいかないことがある。和の精神がわかっていて仲よくしても礼でけじめをつけないとうまくいかない」)

この論語の一節に目がとまった時、古代日本の聖徳太子の憲法十七条の第一条の「和をもって貴しとなす」を思い出しました。これは日本人の精神性を表わす表現としてよく引用されるものです。
この論語の一節は、「和をもって貴しとなす」だけではだめで、礼を大事にし、けじめをつけないといけないと言っています。礼とは世の中で決められているルール等も入っていると思います。

かつての日本は、良くも悪くもですが、一定の規律やルールを守りつつも、規律・ルール一本やりでもなく、和を大事にして調整するような面があったのではないでしょうか。結果的に、規律・ルールある行動が取られながらも、ギスギスするようなことも最小限に止められたのではないでしょうか。

しかし、今はどうでしょうか。和を大事にする文化はある程度保たれていると思いますが、規律・ルールを一定程度強化しようとすると、コミュニケーションを間違えるとブラックやハラスメントのように取られることさえあります。そのような風潮がまた、規律・ルールの普及を躊躇させるような空気を増長させていないでしょうか。
和を大事にした優しさと、規律・ルールを守る厳しさの両面がないと、なかなか日本社会の再興は厳しくないかなと個人的には考えます。

■徳
子曰く、「徳は孤ならず、必ず隣り在り」(論語、里仁第四)
(先生がいわれた。「色々な徳は、ばらばらに孤立してはいない。必ず隣り合わせで、一つを身につければ隣の徳もついてくる。」)

本節は、論語の中でも私が好きな一節の一つです。上記訳は斎藤孝先生の「論語」からの参照となりますが、私は単純に「徳がある人は孤立することなく、必ず人がついてくる。」程度でもよいのでは、と考えています。

徳というのが、自分のことばかり考えるのではなく、他者の幸せに貢献する、ということならば、そのような徳をもつ人には人がついてくる、という事ではないでしょうか。
逆に言えば、人がついてこないとするならば、それは他者の問題ではなく、自分自身の問題だと捉えた方がよいのです。

■一所懸命
「天をうらまず、人をとがめず、下学して上達す。我れを知る者はそれ天か」(論語、憲問第十四)
(これまで不運であっても天をうらまず、人をとがめず、身近なことを学んで高尚な道徳への達してきた。私のことをわかってくるのは、天だ)

これは西郷隆盛の有名な言葉「人を相手にせず天を相手にせよ。天を相手にして己を尽くし、人を咎めず、我が誠の 足らざるを尋ぬべし」を連想させる言葉であり、恐らく下敷きではないかと思うのですが、とても自省させられる言葉です。

長年歴史を学んできてふと思うことがあるのですが、何事かを成し遂げてきた人達は、その成し遂げる過程において必ずしも確実に成し遂げられると確信できなくても、とにかく必死に、脇目もふらずに目標を追いかけた結果、成し遂げられたのではないかと思うのです。

もちろん、目標も計画もあります。これは普通と比べた場合でも既に大きな違いなのですが、でも目標や計画だけだと、絵に描いた餅になります。また、計画通りいかないことも多々あります。

最終的に成し遂げられる人達は、その目標や計画を立てたなら、とにかく必死に、脇目もふらずに追いかける。もちろん、その過程ではうまくいかないこともあります。でも、成し遂げられる人達は、その時も環境や人のせいにせず、またとにかく必死に頑張る。その結果、気づいたら成し遂げられているのです。

そこができるかできないかの違いと言ってしまえばそれまでなのですが、なかなか凡夫には徹底してできることではありません(私も含めて)。ここが一番大きな違いなのではないでしょうか。

もちろん幸運もあると思います(そして、かなり多くあります)。しかし、幸運さえも、必死に、脇目もふらずに追いかけたもののみに落ちてくるのです。環境や人のせいにしたり、論評する人間に、そんな幸運は降ってきません。

冒頭の言葉とともに、こうした歴史上の人物達を重ね合わせながら、我が身を内省したいと思います。

子いわく「これを如何(いかん)、これを如何といわざる者は、われこれを如何ともするなきのみ」(「論語」衛霊公第十五)
(先生が言われた。「『これをどうしたらよいか、これをどうしたらよいか』と懸命に考えない者は、私にもどうすることもできない」)

この一節は論語の中でも好きな一節の一つです。

困難な状況に陥ったり、難題にぶつかったりすることはあるものです。その時に、それを乗り越える為に周りの支援を頂くこともあると思います。そうした周囲の支援には感謝を感じます。

しかし、そうした時に、自分自身がまず、「この状況に対して何とかしなくては」と危機感を感じ、一生懸命に考え、実行しなければ、困難な状況を乗り越えたり、難題を解決することはできません。

よく、このような状況に直面した時に、「どうすればよいのか、どうすればよいのか」と考え続けていると、お風呂の中とか、ふとした時に解決案が思い浮かぶことがあります。そして、それが行動に繋がっていきます。

人間は、あきらめずに考え続ければ、全てとは言えないかもしれませんが、解決策が見つかることが少なくないように感じます。逆に、解決策が見つからないのは、自分以外の他の理由というよりは、懸命に考えない自分に理由があるのかと思います。

そして、自分自身が懸命でないうちは、周囲からが一生懸命支援しようとしたとしても、その支援はあまり有効なものにはならないのではないでしょうか。

私自身、困難な状況や難題に直面した時は、まず「これをどうしたらよいか、これをどうしたらよいか」と懸命に考え、努めていきたいです。

増田 賢作

 


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