8月5日付で配信された時事通信社の記事に、「高市首相、日銀総裁に『国債買い入れ』要請 積極財政にらみ、金利抑制狙う」というものがありました。5月に高市首相が植田日銀総裁と会談した際、長期金利の上昇を抑えるため、必要に応じ国債を買い入れるよう求めていた、という内容です。
9月初旬時点で、政府は当報道に対して肯定も否定もしていないようですが、実際にこのようなやりとりが起こっていたとすれば、大いに憂慮すべき事態と言わざるを得ません。
財政法第5条では、日銀による国債の直接引受け(財政ファイナンスといいます)を原則として禁止しています。日銀のホームページには、その理由として「中央銀行がいったん国債の引受けによって政府への資金供与を始めると、その国の政府の財政節度を失わせ、ひいては中央銀行通貨の増発に歯止めが掛からなくなり、悪性のインフレーションを引き起こすおそれがあるから」とあります。これは、歴史上実際に起こったことだからです。ドイツの例を見てみましょう。
第1次世界大戦で敗戦したドイツ(ワイマール共和国)では、巨額の賠償金や財政赤字を補うため、政府が発行した国債を、中央銀行であるライヒスバンク(帝国銀行)に引き受けさせました。中央銀行が紙幣を刷り続けた結果、市場に出回るお金の価値が激減し、凄まじいインフレが発生、物価はインフレ前の1兆倍の水準にまで達しました。毎日どころか時間ごとにインフレが進み、カフェに入ると、出るころには値上げのために店内の値札が変えられていたといいます。貯金や貰った給料もすぐに価値が無くなってしまうため、国民の生活は困窮してゆきました。その後、新通貨の発行などでハイパーインフレは沈静化しますが、この時の社会の混乱は、のちのナチス政権台頭の遠因にもなったのです。こうした歴史的背景もあり、中央銀行による直接的な国債引き受けは、国民生活を大きく毀損するハイパーインフレを生みかねないことから、現在どの主要国でも禁じられています。中央銀行を政府の財布のように使うことは、まさに「禁じ手」なのです。
冒頭の報道で懸念されるのは、「トラス・ショック」が日本で発生することです。2022年に英国首相に就任したリズ・トラス氏は、減税策を打ち出したものの、財源がなく国債に依存していたことで市場の信認を失い、長期金利は急騰、通貨ポンドや株価が下落する「トラス・ショック」が起こりました。その後トラス首相は辞任を表明し、在任わずか49日の英国史上最短命政権となったのです。国債残高の対GDP比率で英国をはるかに超える日本において、状況はさらに深刻です。「責任ある積極財政」や消費減税の表明で、日本の財政に対する市場の警戒感が高まり、長期金利は上昇しています。それに加えて日銀に国債を引き受けさせるという「禁じ手」まで発動すれば、日本の財政や円通貨に対する市場の信認は大きく揺らぎ、トラス・ショックと同等かそれ以上の事態が発生する可能性があります。
米国は、日本の金利上昇が自国に波及することを懸念していると報じられています。米国の意向は日本側に共有され、7月末の協調為替介入にも繋がっていると考えられます。これは、米国が日本の金利を抑えるアンカー(錨)のような役割を果たしている構図とも言えます。逆に言えば、そのアンカーが外れれば抑え役が不在となり、金利が急騰する可能性も否定できません。
本来であれば、日本政府自身がそのようなリスクを考慮した上で、財政・金融政策を検討すべきです。しかし、冒頭の記事が事実だとすれば、残念ながらそうしたことまで思いが至っていないのではないかと思わざるを得ません。また、日銀が本来持つべき独立性も危ぶまれます。仮に有権者の歓心は買ったとしても、中央銀行を「打ち出の小槌」のように使う政府を、市場は許さないでしょう。
衆議院で圧倒的な議席を誇る与党を背景に、現政権は当面の間続くものと思われます。日本でトラス・ショックを起こさないために、政策や言動が市場に与える影響を慎重に考慮することを期待します。一方で企業としては、状況次第ではさらなる金利の上昇リスクに備える必要があると考えます。
小宮 弘成