(顔回という者がありまして、本当の学問好きでした。怒って八つ当たりすることはなく、同じあやまちを二度とすることはありませんでした。)
出典:論語
論語を読んでいると感じるのは、孔子先生が本当に顔回という弟子を可愛がっていて、将来を期待していたんだろうな、ということです。有名な「一を聞いて十を知る。」も、顔回のことを称えたものでした。
この顔回、孔子先生の期待にも関わらず若くして亡くなったのですが、きっと十分な働きができずに無念で亡くなられたでしょう。だから、まさか2500年にも渡って自分の名前が語り継がれようとは、ご本人は夢にも思わなかったでしょう。
さて、孔子先生が顔回さんを更にほめたたえたこの一節、「怒って八つ当たりすることはなく、同じあやまちを二度とすることはありませんでした。」。
注目するところは、怒って八つ当たりしないことを美徳としてあげています。
歴史上の人物の言葉の中には、「怒り」を戒めとして書かれているものが散見されます。例えば、徳川家康はこんなことを言っています。
「堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。」
家康は家臣等にほとんど怒ったことがなかったと記録にあったりします。私は、怒ることによって家臣の人心を失い、目的が達成されなくなることよりも、怒りを抑え、目的を達成することに集中していたのではないかと考えるのです。
「怒り」も全てがよくないばかりでもなく、「相手の安全や幸せ」を考えた「怒り」もあると思います。
ただ、今回の一節にもあるように「八つ当たり」の「怒り」もあります。八つ当たりの怒りは、当然のごとく人心が離れていきます。
「相手の安全や幸せ」を考えた「怒り」と、「八つ当たり」の「怒り」。どちらも「怒り」という外形は変わらない以上、「相手の安全や幸せ」を考えていたとしても「八つ当たり」と受け取られるリスクもあります。その為、「怒り」は極力表わさないように、抑制的であるべきなのかもしれません。